今年の2月ごろ、某中学校の「○○中学校だより」にこう書いてありました。「みんな仲間で力を合わせて受験に合格しよう!」そのお便りの裏は給食の献立表になっていて、「ライバルに勝つ!ということで、今日のメニューはトンカツです!」と書かれていました。結局、ライバルなのか、仲間なのか…

受験が近づくと、クラスメイトもライバルに見えてきます。実際、受験が近づき、「周りが冷たい…」といった人間関係に悩む学生も多いと思います。

周りを蹴落とそうと考えていると、受験で大切な「運」が逃げてしまいます。今回はちょっと変な話になるので「運」とか胡散臭いと思う方はスルーしてください。

「受験」という格好の競争マインドコントロール

本田塾は中学生は少人数でやっていますし、「みんなで力を合わせてガンバロー!」という雰囲気はありません。みんな黙々とやっています。だからといって、個人主義を勧めたりはしません。自分が知っていることは知らない人に教えればいい。ということを基本にしています。

知っていることは知らない人に教えればいい、というのは、受験は「競争」ではない。という考え方です。英語教育に競争は必要ないと思うので、「勝利する」「競争する」という競争社会のマインドコントロールを塾にはできるだけ持ち込まないようにしています。

「受験で勝つ」、にフォーカスすると、「相手が負ける」ことが大事になってしまいます。つまり、自分が成長する、向上するよりも、相手に勝たせないようにしてしまったりすることが大事に思えたりしてしまいます。

「こんなに倍率が高いんだ…他の受験生が受験で失敗してほしい」「塾ですごくわかりやすい方程式の解き方を教えてもらった!絶対友達には教えず、自分だけのものとしてとっておこう‥」

人間ですから、こう思うのは当然かもしれません。しかし、冷静に考えれば、自分が成績を上げて基準点に届けばいいだけの話ですし、自分がライバルに良い情報を与えれば、いい情報をくれるかもしれません。その方がお互いに成長できますし、何より、友達とは仲がいい方が楽しいです。

これからの時代は知識でもなんでも、ため込み独占するのではなく、シェアする時代です。競争社会から調和の社会へと変わっています。学生も、相手を蹴落とす、一番になる、という競争教育より、分け与える、というほうが教育的ではないでしょうか。

復古主義的な政治家が「道徳」を教科にしようとしているようですが、お涙頂戴のお話を読むよりも、受験というシステムで、競争より、「与える、強調する」といったことを実体験で学ぶ方が道徳心が育つと思うのですが・・・

二宮金次郎が説い「たらいの水」の話

二宮金次郎が説いた、有名な「たらいの水」というお話があります。

「たらいの水のように、水を自分のほうに引き寄せようとすると、逆に向こうへ逃げてしまうけれども、相手にあげようと水を押しやれば自分のほうに戻ってくる。だから、人に与えなければいけない。」という教えです。

人間は空っぽのたらいのような状態で生まれてきます。そのたらいに自然やたくさんの人たちが水を満たしてくれる。その水のありがたさに気づき、誰かに幸せになってほしいと感じて水を相手のほうに押しやろうとすると、結局自分に戻って来ます。しかし、その水を自分のものだと考えたり、水を満たしてもらうことを当たり前と思って、自分の方にかき集めてばかりいると、水は逃げていく…ということだそうです。

お釈迦様の托鉢

同じような話で、お釈迦様の托鉢(たくはつ)という話があります。托鉢とは、お坊さんが鉢(はち)を持って、米や金銭を受けて回ることを言います。

お釈迦様は、弟子に「托鉢をするときは貧しい家からまわりなさい」と教えたそうです。なぜなら、貧しい人ほど、自分が貧しいから、という理由で人に与えることをしてこなかったから。それゆえに今貧しいのであるから、その貧しさから救うために、貧しい人から回りなさい…と教えたそうです。お釈迦様も、与えることができない人は受け取ることもできないと見抜いていたんですね。

受験の運を高める

与えれば、得られる、というのは知識や情報だけではありませんね。例えば、感謝のことば、労いの言葉、というのも、まず自分が発すれば、自分にも返ってくるということだと思います。

受験生の皆さま、受験の辛い時期だからこそ、学んだこと、いい情報、知識、受験のテクニック、得た情報、いい言葉…などを、目の前の大切な人、友達にどんどん教え、伝えてあげましょう。そういった心の豊かさが巡り巡って受験本番に自分を助ける「運」として自分に返ってくると私は思っています。