日本の教育、社会は、「失敗してはいけない」というように、失敗に対してネガティブなイメージを刷り込んでいます。
過去の出来事を失敗と捉えるか、成功と捉えるかは、その人の心次第です。世間的には失敗でも、自分がいい経験だったとポジティブにとらえれば、失敗は成功になると思います。言い換えれば、考え方次第で「過去」は変えられます。
もくじ
私の失敗
立場上、これを言うのは勇気がいるのですが、私は高校受験で失敗しています。
失敗、と書きましたが、失敗とは思っていません。
そもそも、失敗と書いてしまうと、私を拾ってくれた母校に対して失礼にあたります。親友とよべる友人はほとんど高校時代に出会いましたし、その高校に行ったから、海外研修に参加できたり、感謝することばかりです。本当に、行ったところがいい高校です。あの時は失敗したと思っていましたが、今思うと、「あの経験があったから今がある」とも思えます。
皆さまは、私のような者でも先生とよんでくれるので、(本当は先生ではなく講師です)ずっと勉強に関しては成功してきたと思ってくださっているようです。
しかし、そんなことは全くありません。私は早い時期に受験などで失敗をしているので、失敗する人の気持ちはよくわかるつもりです。それに、行きたい高校に行けないと、どんな現実が待っているか、というマイナスのこともよく知っています。(これを言うと、中学生はにわかにやる気を出します。)だから、なおさら第一志望に受かってほしいと思います。
絶対勘違いしてほしくないですが、高校なんてどこに行ってもいいと言ってるわけではありません。
けれど、たまに「どこでもいい」という方はおられます。例外的に、「私は勉強では勝負しないので、ほかの道で勝負します」と言い切れる方は、かなり凄いですし、そういう方は塾にはいらっしゃらないと思います。しかし、塾にいらっしゃるという中・高生の方は、高校や大学に入りたい、という意識はあるはずです。それなのに、「高校なんて入れればどこでもいいです」、というのは、なにか他の理由があるかもしれません。
やりたいことがない、という若者
ホリエモンさんによると、やりたいことが無い、わからないという若者は
「やりたいことがないわけではなく、やりたいことがあまりにも難しくて絶対できない、と勝手に選択肢から外している」
とおっしゃっておりました。
志望校がない、行きたい学校がない、という学生も同じかもわかりませんね。
ぼんやり、行きたい高校や大学はあるけど、どうせ無理だから選択肢から外している。恥ずかしくて言えない。
行きたい高校が無理だと思い込む理由はなんですか?
学校の先生ですか?塾の先生ですか?模擬テストの結果ですか?親ですか?
無理と決められるのって、結局自分だけですよね。他人の意見は謙虚に受け止め、そのことに感情を持ち込む必要はありません。模試の結果の紙切れに人生を決めさせるなら、毎日占いに従って生きていけばいいのではないでしょうか。
「いやいや、そんなこと言って、無謀な学校を受験して、失敗したらどうするんですか?責任とれるんですか?」
と、言われるかもしれません。
もちろん、あまりにも無謀な挑戦はお勧めできませんし、堀江さんが言うように、どこかで「損切り」は必要になります。何年も浪人はできません。
しかし、受験という狭い世界において、自分なんてこんなもんだ、と思って挑戦することをせず、受験だけならまだしも、それを引きずって、自分はこんなもんだ、私は勉強できなかったからバカだ・・と思ってその先の人生を生きる方が失敗だと個人的に思います。周りの人が勝手に心配し、失敗しないようにしようとしますが、失敗かどうかなんて、他人が決めることではないと思います。この記事にも書きましたが、これからの情報化社会、個の時代においては、学び続ける姿勢がとても重要になります。学校の勉強だけが学びではありません。
勉強ひとつで劣等感を感じる必要はないですし、他人と比べる必要もありません。自分の可能性も限定する必要もありません。私のような人間も、大学に入れましたし、海外の大学も卒業できました。受験において、不可能なんてことはないと思います。単語を100個ずつ書け、のような、無駄な「根性」「努力」を捨て、正しい方法で学べば成績はきっと上がります。
結局、失敗とは
最後に、マザーテレサは次の名言を残しています。
『神様は私たちに、成功してほしいなんて思っていません。
ただ、挑戦することを望んでいるだけよ』
挑戦したことに失敗はないと思います。何も行動しないで挑戦しないことが、失敗ということでしょうか。